Camerhizome

写真と文章

日記

今までずっと抱いてきた読書コンプレックスがだんだんと克服されてきた。このような勉強コンプレックスは、ある状態に到達することで克服されるものではなさそうだ。むしろ、学ぶことの楽しさ、もっと言えば、知らないことの楽しさを知ることで、解消されるものなのではないか。何ごとも触れてみて、楽しむこと。これを大事にしたい。

 

広い意味での環境(世界)に適応するために、もっぱら「環境の解読」に時間を費やしてきたが、それによって主体性は置き去りとなってしまった。いくら環境の言語化に成功しても、語る主体(私)が完全に環境に依存しているから、いつまでも中心のない不安定な存在であるしかない。では、どうすればよいだろうか。まずは環境依存的な内発性の範囲内でよいから、何かをやってみる。「こちら側」からアクトしてみる、ということだ。そうすることでだんだんと、環境の中での自己の位置が明確になっていくのではないか。その行動によって必ず環境に適応できるというわけではない。結局適応できないかもしれない。しかし、適応できないとしても、主体性なき適応よりは、創造的であるはずだ。

 

他者への同一化の欲望と自分の固有の欲望とを切り分けること。固有の欲望は潜在的であるために、その本来的な強度を感じとりにくい。また、固有の欲望は必ずしも自発性ではありえない。徹底的に自発性を追求することは結局、〈本当の自分〉になりたいという、同一化の欲望と大差がなくなってしまう。

 

ひとつのことを続けることが良いことだと思われすぎだと感じる。そのように言われたことや、何かを中断することで悲しい顔をされたことがある。しかし、そのときどきひとつのこと、あるいはいくつかのことに集中しはするが、突然に他のことに関心が移ったりする、ということも、実はカッコいいことなのではないかと思っている。

 

最近またブログをやりたいと思えてきた。以前はアウトプットが自己目的化してしまい、ただアウトプットのみのために既存の作品や文章を持ちだす、という具合であった。今もその状況は否定できないが、自己目的化を回避するだけのために、出てきたものにあえて蓋をする理由もない。そのあたりのバランスがすごく難しい。

 

以前よりも、ものごとを楽しむことができるようになった。でも欲を言えば、何か具体的な目標が欲しい。趣味もやりたいこともたくさんあるけれど、それらをただ単に消費したくない(もちろん、反対に、ただ単に生産的でありたくもないのだが)。もしかしたら、これからは、いくつかのことを中断したり有限化したりする時なのかもしれない。

 

何らかの行為が、真の動機にもとづいているのか、はたまた単なるファッションなのかと自問自答しすぎることは、自己表現にとって良くないことなのではないか。完全なる非ファッションは存在しないだろうし、ファッションから始まり、次第に自分自身の表現として確立されることもあるだろうから。また、ファッションがそもそも悪しき形態なのかどうかも、よくよく考えてみると疑問である。